令和八年度伊達忠宗公 369遠忌法要栞「忠宗公の御黒印と花押」
2026.07.12
過渡期の仙台藩を治めた 「守成の名君」 その印証
寛永十三年(一六三六)、藩祖伊達政宗公の死去に伴い仙台藩二代藩主となった伊達忠宗公は、大藩を受け継ぎ、その基礎を堅実に固めたことから「守成の名君」と称されました。
そうした忠宗公の統治を象徴するものの一つが藩主の証として用いられた「御黒印」と「花押」です。これらは知行宛状をはじめとする藩政文書に記され、藩主の意思や権威を示す重要な役割を果たしました。
本ブログでは、現存する文書を手がかりに、忠宗公の御黒印と花押の意匠、そしてそこに込められた意味について見ていきます。
知行宛行状の御黒印
画像の「知行宛状」は畑与次右衛門という伊達譜代の御徒歩衆、いわゆる下級の藩士に与えられたものです。この文書中でひと際目を引くのが、日付の下に押印された「御黒印」です。
この黒印を拡大して見ると「富」という字の下、中央に「藤原忠宗」と篆書の印文があり、周囲には極度に意匠化された文字らしきものと「九曜紋」や「しない三引両」などの家紋があしらわれています。特に注目すべきなのは「しない三引両」です。通常の三引両紋は、丸枠の中に縦三本の直線が入りますが、この紋では中央の一本を除く左右二本が湾曲したような(しなった)形をしています。
三引両は伊達家で最も古い家紋とされ、一二世紀後期からの使用と伝えられますが、「しない三引両」の使用例はそこまで多くなく、忠宗公の墓所感仙殿から出土した「黒漆地九曜三引両紋蒔絵糸巻太刀」の「しない三引両」はその例の一つとなっています。なお、この太刀には九曜紋もあしらわれており、御黒印と通ずる忠宗公の嗜好を感じさせます。

▲「寛永廿一年八月十四日 伊達忠宗領知黒印状」
「寛永の総検地」はおよそ五か年をかけて実施された仙台藩唯一の総検地。その後、家臣たちには所領や俸禄を保証する「知行宛状」が改めて交付された。

▲忠宗公の黒印
最も大きいものは「寛永の総検地」後に発給された知行宛行状の御黒印。中央に「藤原忠宗」との印文がある。大小二つの黒印には「忠宗」の印文が刻まれている

▲三引両 ▲しない三引 ▲糸巻太刀のしない三引両
なぜ「伊達」ではなく「藤原」なのか?
印文にある「藤原忠宗」は、なぜ「伊達」ではなく「藤原」なのでしょうか。伊達家では、平安時代前期の公卿である藤原山蔭を、系図上の始祖である朝宗の祖としています。
藤原氏と言えば特に平安時代に権勢を誇った一族であり、その末裔を名乗る事は政治的な正統性と権威を得ることでもあります。
御黒印の「藤原」もそうした意識が強く表れたものと考えられます。
なお、政宗公の御黒印や御朱印にも藤原氏や藤氏の印文が刻まれたものがあり、伊達家において藤原氏の末裔であるという一貫した系譜意識が存在していたことが伺えます。


▲忠宗公御黒印印文「藤原忠宗」 ▲政宗公御黒印印文「藤原氏…」
忠宗公の花押
政宗公が太閤秀吉の問い質しに対して「鶺鴒の花押」をもって身の潔白を主張したという巷説は有名です。
花押は筆跡的な要素が強く、偽造も容易ではなかったため、藩主の本人証明や文書の真正性を示す署名として重用され、後世には文書の真贋判定や時期の特定などにも活用されています。
忠宗公も複数の花押を生涯で用いていますが、三十種以上あったという政宗公ほど多くの変遷はなく、そのデザインもどこか人柄を思わせるような、華美を抑えた比較的簡潔な意匠となっています。また、その変化を追ってみると、藩主就任以前の花押では、寛永十~十三年頃と推測される政宗公の花押に類似した傾向が見受けられます。しかし、時を経るにつれて、政宗公の花押の特徴を受け継ぎながらも、忠宗公独自の様式へと変化していったことがうかがえます。
この変化は、家督継承前後にみられる連続性を保ちながらも、藩主として自立した権威を表現していく過程を示しているようにも感じられます。

【左】政宗公花押(寛永10∼13年頃)
【右】政宗公花押(天正19年頃)鶺鴒(セキレイ)を象ったとされる

▲忠宗公花押変遷
御黒印や花押は、単なる印章や署名にとどまらず、藩主の権威や出自意識、さらには個性までも映し出すものとも言えます。
忠宗公の文書に残された印影からは、父・政宗公が築いた体制を受け継ぎつつ、それを基盤として自らの藩政を整えていった二代藩主の姿が浮かび上がってきます。そこには、継承と変化が重なり合いながら形づくられた、過渡期の仙台藩のあり方を見ることができます。
