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お知らせ仙台藩伊達政宗

杜の都と産業

2023.05.24

■令和5年度伊達政宗公 388遠忌法要
 
 伊達政宗公は、1636(寛永13)年5月24日にお亡くなりになりました。本日は政宗公の388回目の御命日です。
  政宗公は、1567年(永禄10年)8月3日に現在の山形県にあたる出羽国で誕生しました。父は、米沢城主伊達輝宗公、母は山形城主最上義光の妹の義姫、幼名を梵天丸としました。
 1584年(天正12年)には父輝宗公が隠居し、18歳で家督を相続し戦乱の世を駆け抜けていきます。
 その後、奥州仕置により1591年(天正19年)には、政宗公は郷里の米沢から岩出山へ転封し10年間過ごした後に、1600年(慶長5年)に仙台城の縄張りはじめを行いました。

■杜の都と産業

▲図1 紙濂 『彩画職人部類(再刻版)』 橘岷江 1784年 国立国会図書館

 仙台に入部してからの政宗公は、文化や産業の振興に力を注ぎ、将来を見据え仙台藩の礎を築きました。
森林造成事業に関して、まず政宗公は仙台入部直後に、スギを植栽する為に家臣に命じてスギの種子を紀州熊野より取り寄せ、その種子を藩内各地に17カ所「木苗圃」として造って仕立てたとの伝説が残っています。
 また、元和元年(1615年)に許可なくして竹林の伐採をすることを禁止とし、元和6年(1620年)には、一般竹林に対する御札が発布されました。
この御札の内容としては、
・ウルシの木は1人15本の植栽をする事
・クワ、コウゾ、タケ、マツ、スギ、キリ等の植栽を増やす事
といった内容となっており、これに背いた者には、罰金を科したとされています。
 また、一般的なスギやヒノキのみならず、カヤ・キリ・エンジュ・カシ・ホオノキ・ツキノキなど、様々な種類の植林を奨励しました。
 この中でも特に、ウルシやコウゾの造林を特に奨励しました。ウルシは、実を絞って蝋の原料を取り、ウルシの樹液から塗料として活用され、藩は蝋や漆器の特産品に力を入れました。
 コウゾは、和紙の原料となる木材です。紙料液を漉く際には、図1の絵図ように漉桁(すきげた)を用いました。これを前後左右に振り動かします。この作業を繰り返して、紙の厚さをを均一にしていました。
 製紙業は藩内に職人を招いた事もあり、名取・刈田・伊具など各地に広まりを見せました。柳生紙・白石和紙など多くの良質な和紙が作られました。
 残念ながら、1945年7月10日の仙台空襲にて、緑あふれた杜の都の大部分はなくなってしまいました。仙台開府以後の植林事業が今日の杜の都につながっていると言えるのではないでしょうか。 

■仙台紙子

▲図2 仙台紙子 『日本山海名物図会 5巻』 平瀬徹斎 1797年 国立国会図書館

 画像は、「仙台紙子」の制作風景です。紙子とは、和紙で作られた衣服で、軽く風を通さないため防寒に用いられてきました。この仙台紙子は白石和紙で作られたものです。
 画像横の文章には「仙臺かみこ 地紙つよく 能もみぬきてこしらゆる故、やわらかにて つやよし」と書かれているとおり、手前の男性は、和紙をよく揉んでいる様子を表しています。紙子の産地は仙台の他に、肥後、播磨、紀州などの産地がありました。紙子は安価で持ち運びしやすく、防寒の為に多くの方に愛用されました。

■政宗公の顔

 政宗公は幼少時代天然痘にかかり、右目を失明していたことは文献などから知られていますが、瑞鳳殿の発掘調査の際に出土した遺骨からは隻眼であったという明らかな証拠は見つけられませんでした。
 令和3年にNHKと伊達家が共同となり、国立科学博物館坂上和弘博士監修、京都芸術大学戸坂明日香准教授制作により、政宗公の頭骨の再調査と復顔が行われました。
 この時の再調査により眼窩の形状が左右で異なっており、左に比べ右の眼窩が小さかったことが判明しました。これは失明により幼少期で生育が止まった右眼窩に対し、左眼窩は通常の成長過程を経たために生じた差と考えられます。
 復顔像は政宗公40代半ばから後半の容貌が復元されており、凛々しい姿を見ることができます。
現在、仙台市では青葉区追廻にて、全国都市緑化フェアを開催中です。瑞鳳殿所蔵の政宗公復顔像も、期間中は会場の緑彩館にて展示しております。政宗公が礎を築いた緑豊かな杜の都を感じながら、足をお運びください

[参考]
・『日本造林行政史概説』 日本林業技術協会 1949
・『白石和紙の伝統 奥州白石郷土工芸研究所のこと』 奥州白石郷土工芸研究所1972
・『仙台市史通史編3近世1』仙台市史編さん委員会 2001