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瑞鳳殿のご案内

瑞鳳殿境内の霊屋・史跡・施設を
ご紹介いたします。※番号をクリックすると解説にとびます

1瑞鳳殿

瑞鳳殿は1636(寛永13)年、70歳で生涯を閉じた仙台藩祖伊達政宗公の遺命により、その翌年ここ経ケ峯に造営された霊屋(おたまや)です。瑞鳳殿は、本殿、拝殿、御供所、涅槃門からなり、桃山文化の遺風を伝える豪華絢爛な廟建築として1931(昭和6)年、国宝に指定されましたが、1945(昭和20)年の戦災で惜しくも焼失しました。現在の建物は規模、装飾ともに、焼失以前の瑞鳳殿を範とし、1979(昭和54)年に再建されたものです。平成13年(2001)に、仙台開府四百年を記念して大改修工事が実施され、柱には彫刻獅子頭を、屋根には竜頭瓦を復元し、創建当時の姿が甦りました。

涅槃門

瑞鳳殿の正面門は「涅槃門」と呼ばれています。涅槃とは煩悩を取り去った悟りの境地となる状態を意味し、広くは死という意味にもなります。瑞鳳殿の涅槃門は樹齢数百年の青森檜葉を用いて再建され、正面扉上部の蟇股には瑞獣「麒麟」、左右の妻飾には「牡丹と唐獅子」など焼失前と同様の豪華な飾り彫刻が施されています。

拝殿

拝礼のために整えられた施設で、焼失前の拝殿は瑞鳳殿の床面と同じ高さになっており、正面扉を開けると、橋廊下、唐門を通して瑞鳳殿内に安置された政宗の御木像に拝礼することができたとされます。また側面からも回廊が伸びており御供所とも繋がっていました。正面扉上には江戸時代の名書家佐々木文山の筆による扁額がありました。現在の拝殿は瑞鳳殿がよく見えるよう簡略化されています。

殉死者供養塔(宝篋印塔)

江戸時代の初めには、死んだ主君のあとを追って切腹する「追腹」が多く行われました。伊達政宗の死去に際しては、石田将監ら直臣15人とその家士5人が殉死しています。ちなみに殉死者と呼ばれるのは、生前に主君から許可を受けた者のみであり、許可を得ずに勝手に切腹した者たちは殉死者とは認められません。
こうした殉死が江戸時代に盛んに行われた主な理由として「忠臣は二君に仕えず」といった当時の武士の価値観があります。死をもって主君への忠誠を示す殉死は美徳としてとらえられていました。

2資料館

瑞鳳殿の施設の一部であった御供所を再建し、内部を資料館としています。空襲で焼失した伊達三代の霊屋が再建される際に行われた発掘調査では、遺骨をはじめ副葬品などの貴重な資料が数多く発見されています。
瑞鳳殿資料館では発掘調査の模様を20分の記録映画にして上映しているほか、副葬品、遺骨調査資料、遺骨のレプリカを元にして精密に復元された三藩主の容貌像を展示解説しています。
*資料館内での写真及び動画の撮影はご遠慮ください

3善応殿

善応殿は三代藩主伊達綱宗公(1640-1711)の霊屋で、享保元(1716)年、五代吉村公の時代に竣工しています。本殿、唐門、拝殿、廟門等からなり、先の瑞鳳殿、感仙殿よりは簡素な装飾であったものの、落ち着いた佇まいの風情ある霊屋であったと伝えられます。明治初年に感仙殿同様、本殿以外の建物は破却され、本殿もまた昭和20年の戦災で焼失しました。昭和60年感仙殿とともに再建されました。
善応殿には焼失以前の資料が乏しかったため、種々の検討の結果、綱宗公が好んで描いた「鳳凰」と「牡丹」を装飾に採用しています。
綱宗公の死去は殉死の禁令以後の事であったため殉死者はなく、家臣が出家して菩提を弔うという「擬殉」が行われました。善応殿の左前には擬殉者熊谷斎直清の墓があります。

4感仙殿

感仙殿は二代藩主伊達忠宗公(1599~1658)の霊屋で、寛文4(1664)年に四代藩主伊達綱村公によって建立されました。瑞鳳殿と同様に本殿、唐門、拝殿、御供所、廟門などの建築からなる華麗なものでしたが、明治初年に廃仏毀釈の影響を受け、本殿以外は取り払われました。昭和6(1931)年に江戸初期の廟建築の優れたものとして、瑞鳳殿とともに国宝に指定されましたが、昭和20年の戦災で残された本殿も焼失しました。
現在の霊屋は瑞鳳殿に続いて再建が進められ、昭和60年に完成しました。
感仙殿の両脇には忠宗公死去の際、殉死した直臣と陪臣の供養塔(宝篋印塔)があります。戦災による感仙殿焼失の際、創建当時の供養塔は破壊されましたが、感仙殿再建の折、同じく建て直されました。

5妙雲界廟

感仙殿北側には九代藩主周宗公、十一代藩主斉義公夫妻の墓所である妙雲界廟があります。

6御子様御廟

参道入口には五代藩主吉村公以後歴代藩主 公子公女の墓所である御子様御廟があります。

7満海上人供養碑

記録によると伊達政宗埋葬の際、地中より石室が現れ内部から鍚杖、数珠などが見つかったとされます。造営奉行の奥山大学常良が土地の古老に尋ねたところ、それは万海上人の墓だといいます。万海上人は一説によれば神通力を持った高徳の僧で、万部の経を塚に納め、死後経ヶ峯に葬られたとされています。この万海上人が隻眼(片目)であったことや政宗誕生時の逸話などから、政宗はこの万海上人の生まれ変わりと信じられるようになりました。人々は政宗が万海上人と同じ場所に葬られることになった因縁を意味深く思ったといいます。

瑞鳳殿本殿の東側に「万海上人塔」があったとされますが、昭和20年(1945)の戦災と、その後の荒廃によりその石碑は失われました。現在の供養碑は平成元年(1989)に建立されました。

8弔魂碑

.6弔魂碑の記述追加 ※画像その他素材参照(2.1.6弔魂碑)
弔魂碑は,慶応4年/明治元年(1868)の戊辰戦争,明治2年(1869)の函館戦争における仙台藩士及び旧幕臣・米沢藩の仙台応援隊士らを含む殉難者1,260名及び民間で犠牲となった多くの方の霊を弔うために、伊達家(14代当主伊達宗基)と旧仙台藩士が出資し、明治10年(1877)に鋳鉄製で建立されました。

弔魂碑正面の台座には、「この戊辰戦争で仙台藩のために戦死した一千人余の当地士民の霊魂を慰める為に、伊達宗基旧藩知事により政宗公の御廟のそばに本碑を建てた」と記載されています。