令和7年度伊達綱宗公315遠忌法要「墓室から発掘された石造物ー地元産の石が支える御霊屋(2)ー」
2025.06.04
▲仙台空襲で焼失後、善応殿が再建されるまで木製の墓標が立っていた
令和7年6月4日は伊達綱宗公の315回目の御命日にあたります。
綱宗公は、仙台藩二代藩主伊達忠宗公と側室貝姫の六男として、仙台城二の丸で誕生し幼名を巳之助と称しました。
生後間もなくして母の貝姫を亡くし、忠宗公の正室振姫の養子となります。
忠宗公と振姫の間には、鍋姫、虎千代、万助がいましたが長男の虎千代は早世し、次男の万助は光宗として元服後に19歳で亡くなりました。
正室振姫の養子ということもあり、綱宗公が家督を継ぐこととなりました。
万治2(1659)年、仙台城に初入部した綱宗公は、塩釜神社の修造や忠宗公の霊廟である感仙殿の造営にも着手します。
翌年には、仙台藩単独の工事である小石川堀普請工事を命じられ、藩主として積極的に政務にあたっていましたが、故あって逼塞の身となります。
逼塞とは、門戸を閉じて昼間人の出入りを禁止する令であり、その原因の一説には、お酒の影響があったとされます。
21歳の若さで逼塞となった綱宗公は亡くなるまでの50年間を品川の下屋敷にて過ごすこととなりました。
墓室から発掘された石造物
綱宗公が亡くなってから5年後の正徳6(1716)年3月に完成した善応殿は、昭和20年仙台空襲により瑞鳳殿感仙殿同様に焼失しました。
その後善応殿本殿再建に伴い、昭和56年及び58年に発掘調査が行われています。
今回は善応殿より発掘された石造物のご紹介をします。
感仙殿では、板碑の転用により石巻産井内石(砂質粘板岩)が一部に使用されていますが、善応殿では基礎石・石室・内部構造すべてに三滝玄武岩が用いられています。
三滝玄武岩は仙台城の石垣や土台石にも使われた石材で、国見や八幡地区一帯から切り出されたものです。
図は、善応殿本殿地下の様子を示しています。綱宗公の遺骨が納められた石室の上部には、瑞鳳殿や感仙殿の他の霊廟には見られない「石櫃」が設置されていました。
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▲図 善応殿本殿地下 ▲発掘時の石櫃の様子
この石櫃は蓋がついており、約67㎝の正方形で、丁寧に石がくりぬかれて作られています。深さはおよそ40㎝で、蓋石は銅製のベルトで固定された頑丈な造りとなっていました。石櫃の中には高さ約30㎝の甕が納められ、その中には曲物(木製の容器)が収納されていました。
▲甕 ▲発掘時の親知らず歯 ▲綱宗公親知らず歯
曲物の底板には、一本の歯が安置されており、何重にも包まれ大切に保管されていた事がわかります。この歯は30代から40代の綱宗公の左上顎の智歯(親知らず歯)で、松島の瑞巌寺に保管されていたと記録が残っています。
綱宗公の石室が完成した際、近臣であった高橋文之進が瑞巌寺から歯を運び出し、熊谷斎直清に引き渡します。その後石室の上部に追葬されました。
石櫃の材質は、色合いや玄武岩に含まれる斜長石斑晶の特徴がみられる事から三滝玄武岩が用いられていると推測されてきました。
今回、石材に含まれる磁性鉱物の量に依存する帯磁率の測定を、東北大学名誉教授 蟹澤聰史氏に実施していただいたところ、石櫃は三滝玄武岩の示す帯磁率の範囲内にあることが判明しました。
発掘調査終了後、甕棺と親知らず歯を納めた甕が堤焼にて新たに作り直され、綱宗公の遺骨とともに再埋葬されました。
出土の遺骨が納められた甕棺や親知らず歯の入っていた甕は瑞鳳殿資料館内に展示しています。
晩年の綱宗公
▲伊達綱宗公御木像 昨年度感仙殿・善応殿本殿及び御木像の修繕工事を実施。御木像は安置されて以来初の修繕となった
綱宗公は21歳から72歳で亡くなるまでの50年間江戸の品川下屋敷で過ごしました。
逼塞隠居という身ではありましたが、書や蒔絵、茶道など芸術において優れた才能を発揮しました。44歳の時には、薙髪して嘉心と号します。
晩年、綱宗公は下顎歯肉がんを患い、正徳元(1711)年の春ごろから体調が優れず、冬になると歯茎の痛みが強くなり、食事もとることができないという状態が続きました。三男の宇和島藩三代藩主の伊達宗贇の死により、深く悲しみ、容態はさらに悪化していきました。気丈にふるまっていた綱宗公も、病の重さを隠しきれない様子だったと伝えられています。
発掘された遺骨からは、下顎骨にがんの痕跡が確認され、晩年強い痛みに苦しんだ事がうかがえます。親知らず歯の追葬の意図は明確ではありませんが、がんの痛みに耐えた綱宗公の安寧を願う気持ちが込められていたのかもしれません。
参考文献
「仙台城」仙台市教育委員会 昭和四二 「伊達忠宗伊達綱宗の墓とその遺品」昭和六〇
※本栞作成にあたり、データのご提供並びに石材についての知見を東北大学名誉教授蟹澤聰史氏にご教授いただきました。この場にて深く感謝申し上げます。