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仙台藩伊達綱宗収蔵品

令和8年度伊達綱宗公316遠忌法要 善応殿と伊達綱宗

2026.06.04

二一歳で幕府より逼塞隠居を命じられてから、七二歳で亡くなるまで、三代藩主・伊達綱宗公は、屋敷の外へ出ることを許されず、江戸・品川の藩邸でその半生を過ごしました。

そうした日々のなかで、綱宗公は能、茶道、絵画、蒔絵などを精進し、豊かな文化的感性を備えた人物としても知られています。

正徳元年(一七一一)六月四日、綱宗公は品川屋敷にて七二年の生涯を閉じます。その墓所・善応殿は、後に五代藩主・伊達吉村の命によって造営されました。

善応殿には、かつて本殿のほか拝殿や御供所なども備えられていましたが、明治初年に本殿を残して撤去されました。その後、仙台空襲による焼失を経験しながらも、昭和五十九年に再建され、今日へと受け継がれています。

伊達家歴代藩主の墓室には、それぞれ異なる特徴が見られます。

伊達政宗公と忠宗公の墓室では木棺による埋葬が行われた一方、綱宗公の墓室では、「甕棺」が用いられていました。

●甕棺 綱宗公の遺骸が納められていた甕棺。 側面には吊り金具が取り付けられていた

江戸では、一六世紀末から政宗・忠宗公時に使用されたものと同様の座葬用の円形木棺(早桶)や長方形木棺が使用されていましたが、一七世紀後半になると長方形木棺は次第に姿を消し、座葬の甕棺が広く普及したと考えられています。

綱宗公の埋葬方法は、埋葬形式が変化していく時代の流れを映すものともいえます。

発掘調査の記録によれば、墓室中央には甕棺が据えられ、鉄製の吊り金具によって支えられていました。甕の口は粘土状の材料で丁寧に封じられ、その上には綱宗公の遺歯を納めた石櫃が安置されていました。

副葬品にも違いが見られます。政宗公の墓室からは、武具や文具、煙管などの日用品に加え、ヨーロッパ伝来品とみられるブローチなど約三〇点が出土しました。忠宗公の墓室では、糸巻太刀、打刀、脇差、具足などが確認されています。

一方、綱宗公の墓室では、木箱内の甕棺周辺から眼鏡、煙管、打刀などが見つかり、甕棺内部からは、文具類や化粧道具など十数点が確認されました。

 

●甕棺に納められた品々

甕棺内部では、まず底に石灰が敷かれ、その上に宝永小判金一〇枚が円形に並べられていました。綱宗公のご遺骸は東を向き、小袖に羽織を身に着け、顔の前には柄鏡が置かれ、両腕で脇差を抱えるような姿で納められていたことが記録されています。

傍らには鏡掛や化粧道具を収めた網代手箱が添えられ、手箱の中には蒔絵の櫛、紅入、牙製ヘラ、和ばさみなど、身支度に関わる品々が納められていました。

また、甕棺外側の木箱からは、打刀一振、革袋に収められた眼鏡、煙管二本が発見されています。

煙管には竹製の羅宇の風合が残されており、眼鏡は凸レンズを用いた舶来の老眼鏡と推測されています。革袋には金箔押し模様の痕跡も確認されました。

武具に加え、眼鏡や化粧道具、煙管といった副葬品からは、綱宗公の日常や暮らしぶりを垣間見ることができます。

再開館した資料館では、今回紹介した副葬品の一部を展示しています。綱宗公が埋葬された甕棺をはじめ、柄鏡、眼鏡と革袋、煙管等、発掘された副葬品をぜひ新資料館でご覧ください。

 

●綱宗公埋葬の様子(AIによるイメージ再現) 遺骸の周囲には石灰が詰められ、顔前には柄鏡、左手側には鏡掛、右手側には網代手箱が配置されていた。さらに両腕で脇差一振を抱えていた。 ●左上:鏡掛 右上:柄鏡 右下:網代手箱 下:脇差 綱宗公甕棺内に一緒に埋葬されていた

 

 

  • 綱宗公、再び善応殿へ

●綱宗公再埋葬の様子

発掘後の学術調査終了後、綱宗公のご遺骨はガーゼで包まれ、桧の棺へ下肢から順に丁重に納められました。また、甕棺および遺歯を納める壺は、仙台ゆかりの堤焼で新たに作成されました。

墓室内では木室が腐朽し崩れていたほか、石室内側の漆喰にも損傷が見られたため、補修が行われました。崩れていた木室は厚さ六センチの桧板で新たに整えられ、石室との間には漆喰が詰められました。

昭和五十八年六月四日、綱宗公は再び善応殿へ納められました。現在もこの場所で静かに眠っています。

二一歳で逼塞隠居となり、長く江戸・品川屋敷で暮らした綱宗公。

墓室に納められた副葬品は、その日々を今に伝えています。

本しおりを手に、綱宗公の歩んだ歳月に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 

参考文献

伊達綱宗の墓とその遺品

感仙殿・善応殿再建の経過

近世の葬送墓制と祖先信仰