伊達家だてけ仙台藩せんだいはん・その他の質問

F-1.伊達家だてけ家紋かもんについて教えて下さい。
F-2.伊達家だてけ家紋かもんは、なぜ『たけすずめ』なのでしょうか
F-3.伊達だて政宗まさむねの現在の子孫しそんについて教えて下さい。
F-4.仙台せんだいの地名はいつ定められたのでしょうか
F-5.仙台藩せんだいはんの呼び名はいつから使われたのでしょうか
F-6.仙台藩せんだいはん武具ぶぐ武器ぶきについて教えて下さい。
F-7.『伊達だて政宗公まさむねこう五常訓ごじょうくん』は伊達だて政宗まさむねの作なのでしょうか
F-8.伊達だて政宗まさむね7人の宿敵しゅくてきとは誰ですか。
F-9.伊達家だてけ家臣団かしんだんについて教えて下さい。
F-10.伊達だて政宗まさむねには兄弟はいたのでしょうか
F-11.伊達だて政宗まさむねいくさについて教えて下さい。
F-12.伊達だて政宗まさむねの以前の伊達家だてけについて教えて下さい。
F-13.伊達だて忠宗ただむね〔2代藩主はんしゅ〕の生涯しょうがいについて教えて下さい。
F-14.伊達だて綱宗つなむね〔3代藩主はんしゅ〕の生涯しょうがいについて教えて下さい。
F-15.仙台城せんだいじょうには何人の人が住んでいたのですか
F-16.仙台城せんだいじょうは、どのような城だったのですか
F-17.なぜ、仙台城せんだいじょうがないのですか
F-18.伊達家歴代当主だてけれきだいとうしゅの数え方に『せい』と『だい』ふたとおりあるのはなぜですか
F-19.伊達だて政宗まさむね辞世じせいを教えて下さい。


F-1.伊達家だてけ家紋かもんについて教えて下さい。
伊達家だてけ名門めいもんの家であり、定紋じょうもんである『たけすずめ』(F-2参照)の外に 『三引両みつびきりょう』、『きく』、『きり』、『牡丹ぼたん』、『蟹牡丹かにぼたん』、『九曜くよう』、『雪薄ゆきすすき』などの家紋かもんを有していました。寛永系図かんえいけいずによれば、『三引両』は、伊達家1世朝宗せいともむねF-12参照)の時代に、源頼朝将軍みなもとのよりともしょうぐんより拝領はいりょうしたまくの紋を後に『三引両』にあらためて家紋としたもので、『竹に雀』は、伊達家15世晴宗はるむねF-12参照)の時代からもちいられたものです。『九曜』、『雪薄』は、17世〔仙台藩祖せんだいはんそ政宗まさむねの時代から用いられ『菊』、『桐』は豊臣秀吉とよとみひでよしより拝領したものです。また、『牡丹』は、伊達家20世〔4代藩主はんしゅ綱村つなむらの時代に近衛家このえけから与えられたもので、伊達家21世〔5代藩主〕吉村よしむらは、これを改めて『蟹牡丹』としました。
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F-2.伊達家だてけ家紋かもんは、なぜ『たけすずめ』なのでしょうか
たけすずめ』は伊達家だてけ家紋かもんとして知られていますが、元は藤原氏勧修寺家ふじわらしかんじゅうじけ定紋じょうもんで、室町期むろまちき関東管領かんとうかんれいであった上杉家うえすぎけ下賜かしされたものです。伊達家の家紋となったのは、天文てんもん11年(1542)伊達家14世稙宗せいたねむねF-12参照)が3男実元さねもとを上杉家の養子ようしとする際、上杉家から縁組えんぐみ引出物ひきでものとして伊達家におくられたもので、伊達家15世晴宗はるむねF-12参照)以降『三引両みつびきりょう』(F-1参照)に代わって定紋となりました。
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F-3.伊達だて政宗まさむねの現在の子孫しそんについて教えて下さい。
現当主げんとうしゅは、伊達家だてけ34せい仙台せんだい伊達家だてけ18代当主伊達だて泰宗やすむねB-12参照)になります。なお、詳細しょうさいは『伊達泰宗ホームページ』http://www5a.biglobe.ne.jp/~date-18で紹介されています。
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F-4.仙台せんだいの地名はいつ定められたのでしょうか
貞山公治家記録ていざんこうちかきろく』巻二十には仙台せんだいの地名について「十二月・・・廿四日。〔慶長5年〕辰刻、公、千代城へ御出、御普請御縄張始メアリ。文字ヲ仙臺ト改メラル。昔時此城ノ側ニ千體佛アリ。因ッテ千體ト号ス。其後、文字ヲ千代ト改ム。・・・」と記され、慶長けいちょう5年(うるう)12月24日、城の縄張なわばり始めの際に伊達だて政宗まさむねが、それまでの地名千代せんだいから仙臺せんだい〔仙台〕に改めたことが記されています。
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F-5.仙台藩せんだいはんの呼び名はいつから使われたのでしょうか
徳川幕府とくがわばくふ時代に『はん』という領土りょうど公称こうしょうは存在しません。諸大名しょだいみょうの領土の名称には、地名を用い伊達家だてけであれば仙台領せんだいりょうと呼ばれました。藩という公称は慶応けいおう4年(1868)明治めいじ改元かんげんされた際に、旧幕領土をけんに定め、その他の大名領を藩とする「府県藩三治制ふけんはんさんちせい」が規定きていされた時に始まります。仙台領は明治2年(1869)、仙台藩という行政単位ぎょうせいたんいとなり、明治4年、廃藩置県はいはんちけんによって仙台県となりました。従って、明治以前での『仙台藩』や『藩主はんしゅ』といった呼び方はあやまりとなりますが、明治からさかのぼって徳川幕府時代の支配体制しはいたいせいを表す総称そうしょうとして簡便かんべんなため、現在まで慣用かんようされています。
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F-6.仙台藩せんだいはん武具ぶぐ武器ぶきについて教えて下さい。
仙台藩せんだいはん武具ぶぐである仙台胴具足せんだいどうぐそくは、胴部分が鉄の板5枚から構成されることから『五枚胴ごまいどう』とも呼ばれ有名です。伊達家だてけの具足は全体を黒漆塗くろうるしぬりで統一し、制作過程では、兜鉢かぶとばちどうの正面に鉄砲てっぽうためちをした上で、玉をね返すことができたものだけが採用さいようされました。また、武器ぶきとしては、仙台銃せんだいじゅうと呼ばれる火縄銃ひなわじゅうや馬上から使用する短銃たんじゅうなど、最先端さいせんたんの技術が、武具と武器に活用されていました。
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F-7.『伊達だて政宗公まさむねこう五常訓ごじょうくん』は伊達だて政宗まさむねの作なのでしょうか
貞山政宗公遺訓ていざんまさむねこういくん』または『仙台黄門政宗卿遺訓せんだいこうもんまさむねきょういくんぞくに『伊達だて政宗公まさむねこう五常訓ごじょうくん』としょうせられるものについては、伊達家だてけに関する記録文書のどれにも、根拠こんきょとなるものが見当たりません。従って、五常訓をとり上げたものは極少数に限られます。いわゆる俗説ぞくせつとして知られていますが、出所しゅっしょや年月日等の裏付うらづけがありませんので、歴史的事実としては否定ひていされることになります。『仙台黄門政宗卿遺訓:じんぎればよわくなるに過ぎればかたくなる れいに過ぎればへつらいとなる に過ぎればうそをつく しんに過ぎればそんをする』
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F-8.伊達だて政宗まさむね7人の宿敵しゅくてきとは誰ですか。
質問の設定条件が曖昧あいまいなため、回答は致しかねます。〔参考:回答の1例ですが同時期に、連合軍れんごうぐんF-11参照)を組むなどして、伊達だて政宗まさむね交戦こうせんした隣国りんごく戦国大名せんごくだいみょうには、たけあしそういわ石川いしかわ白河しらかわ須賀川すかがわの7氏があげられます。〕
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F-9.伊達家だてけ家臣団かしんだんについて教えて下さい。
伊達家だてけ家臣団かしんだんは、その統制とうせい秩序保持ちつじょほじのため一門いちもん一家いっけ準一家じゅんいっけ一族いちぞく宿老しゅくろう着座ちゃくざ太刀上たちあげ召出めしだしなどの上級藩士じょうきゅうはんしと、平士へいしまたは大藩士おおばんしといわれる中級藩士、組士くみしそつ足軽あしがる〕といわれる下級藩士による各付かくづけ、序列じょれつに基づき家臣団が編成へんせいされていました。
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F-10.伊達だて政宗まさむねには兄弟はいたのでしょうか
伊達だて政宗まさむねには弟の小次郎こじろうと、早世そうせいした妹が二人ありましたが、天正てんしょう18年(1590)伊達政宗は小田原おだわらへの出陣しゅつじんを前に発生した政宗毒殺未遂事件どくさつみすいじけんに際し、これを画策かくさくした母保春院ほしゅいんA-1参照)を山形やまがた追放ついほうし、また、家中分裂かちゅうぶんれつの原因ともなった弟小次郎は成敗せいばいされ13歳で亡くなりました。
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F-11.伊達だて政宗まさむねいくさについて教えて下さい。
伊達だて政宗まさむねの主ないくさは、天正てんしょう13年(1585)安達郡あだちぐん福島県ふくしまけん人取橋ひととりばしにおけるたけ氏、あし連合軍れんごうぐんとの合戦かっせんF-8参照)。天正17年(1589)蘆名義広あしなよしひろ磐梯山麓摺上原ばんだいさんろくすりあげはらやぶった合戦。同年豊臣秀吉とよとみひでよしめいによる葛西大崎一揆鎮圧かさいおおさきいっきちんあつのための出陣しゅつじん。豊臣秀吉の命による文禄ぶんろく元年 (1592)から2年にわたる朝鮮出兵ちょうせんしゅっぺいD-13参照)。慶長けいちょう5年(1600)徳川家康とくがわいえやすの命による上杉景勝うえすぎかげかつ支城白石城攻略しじょうしろいしじょうこうりゃく。慶長19年(1614)大阪おおさか冬のじん元和げんな元年(1615)大阪夏の陣などがあげられます。
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F-12.伊達だて政宗まさむねの以前の伊達家だてけについて教えて下さい。
18世紀初頭に編纂へんさんされた伊達氏だてし系図によれば、伊達家始祖だてけしそとなった朝宗ともむねF-18参照)は藤原山蔭ふじわらやまかげそんとあり、常陸国真壁郡伊佐荘中村ひたちのくにまかべぐんいさのしょうなかむら茨城県いばらぎけん下館市しもだてし栃木県とちぎけん真岡市もおかし〕に居住きょじゅうし、はじめ中村なかむらうじとしていました。文治ぶんじ5年(1189)、朝宗は源頼朝みなもとのよりともによる奥州征伐おうしゅうせいばつに従い、その軍功ぐんこうにより伊達だてぐん福島県ふくしまけん〕を与えられ伊達を氏としました。以来伊達家は鎌倉幕府かまくらばくふ室町幕府むろまちばくふとの政治情勢せいじじょうせいに対応<し、戦国せんごく時代になると14せい稙宗たねむねF-2参照)が奥州おうしゅう守護しゅご、15世晴宗はるむねF-2参照)は奥州探題おうしゅうたんだいされ、両者はこの地位を利用し奥州に勢力を拡大し、大名だいみょうとしての基板をかためました。
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F-13.伊達だて忠宗ただむね〔2代藩主はんしゅ〕の生涯しょうがいについて教えて下さい。
伊達だて忠宗ただむねは、慶長けいちょう4年(1599)伊達だて政宗まさむねの二男として大阪おおさかに生まれ、寛永かんえい13年(1636)38歳で伊達家だてけ相続そうぞくし、2代藩主はんしゅとなりました。忠宗は洗練せんれんされた人格と法治主義ほうちしゅぎにより藩政はんせいを確立し、仙台城二ノ丸せんだいじょうにのまる造営ぞうえい、寛永の総検地そうけんちなど、行政面ぎょうせいめんで多くの治績ちせきを残し、万冶まんじ元年(1658)7月12日、60歳で没しました。
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F-14.伊達だて綱宗つなむね〔3代藩主はんしゅ〕の生涯しょうがいについて教えて下さい。
伊達だて綱宗つなむねは、寛永かんえい17年(1640)伊達だて忠宗ただむねの6男として仙台城二ノ丸せんだいじょうにのまるに生まれ、万冶まんじ元年(1658)19歳で伊達家だてけ相続そうぞくし、3代藩主はんしゅとなりました。万冶3年、21歳の時、ゆえあって幕府ばくふより逼塞ひっそくめいじられ、嫡男ちゃくなん亀千代かめちよ〔4代藩主綱村つなむら〕が2歳で伊達家を相続し、伊達だて兵部宗勝ひょうぶむねかつ後見こうけんにあたり後に「寛文かんぶん事件じけん」〔『伊達だて騒動そうどう』』〕へ発展しました。隠居後いんきょごの綱宗は、和歌わか書画しょがまき等に芸術的天分てんぶんを発揮され、文化人としての生涯しょうがいを送り、正徳しょうとく元年(1711)、71歳で没しました。
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F-15.仙台城せんだいじょうには何人の人が住んでいたのですか
仙台城せんだいじょうF-16 F-17参照)では、儀式ぎしき接見せっけん、また奉行ぶぎょう政務せいむを行う公邸こうていとしての『おもて』の部分と藩主はんしゅの家族が生活する私邸していとしての『おく』とに分かれており、『奥』には老女ろうじょから下女げじょまでを含めて約100人の女性が勤めていたと推定されます。
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F-16.仙台城せんだいじょうは、どのような城だったのですか
慶長けいちょう10年10月、仙台城せんだいじょうF-15 F-17参照)を訪れたイスパニア使節しせつセバスチャン・ビスカイノの報告によれば、「城は彼国かのくに〔日本〕の最もすぐすぐれ、また最も堅固けんごなるものの一つにして・・・」と記されています。仙台城は、ぐんじょうの必要性が優先された山城やまじろで、広瀬川ひろせがわに囲まれ、断崖だんがいの上にはやぐらを築き、天守閣てんしゅかくを必要としない天然てんねん要害ようがいでした。
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F-17.なぜ、仙台城せんだいじょうがないのですか
仙台城せんだいじょうF-15 F-16参照)の建築物は明治めいじ時代における、解体や失火により、大手門おおてもん隅櫓すみやぐらを残すのみとなりましたが、昭和しょうわ20年の仙台空襲くうしゅうですべてを焼失しました。なお、現在の隅櫓は戦後再建されたものです。
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F-18.伊達家だてけ歴代れきだい当主とうしゅの数え方に『せい』と『だい』ふたとおりあるのはなぜですか
伊達家だてけでは歴代当主れきだいとうしゅせいで呼び、伊達家始祖しそである朝宗ともむねを1世(F-12)、朝宗から17代目の当主であり、仙台藩祖せんだいはんそとなった政宗まさむねを17世と併記へいきして初代しょだいと数え、歴代標記ひょうきの混同を避けています。
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F-19.伊達だて政宗まさむねせいを教えて下さい。
貞山ていざん公治家こうちか記録きろく』〔伊達だて政宗まさむね治世ちせいを記録したもんじょ〕によれば、「公御薨去こうごこうきょ、御年七十、御辞世和歌ごじせいわかアリ『くもりなき心の月を先たてて浮世うきよやみてらしてそく』〔所載しょさい、貞山公治家記録巻之まきの39下、元禄げんろく16年(1703)成立〕と記されています。また、『政宗まさむね』〔寛永かんえい19年(1642)、伊達だて成実しげざねにより成立〕によれば『曇りなき心の月を先たてて浮世の闇をれてこそ行け』と記されていますが、いずれも、政宗の辞世として扱われています。
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