経ヶ峯墓域きょうがみねぼいき周辺しゅうへん史跡しせき等について

D-1.経ヶ峯きょうがみねという名前の由来ゆらいを教えて下さい。
D-2.経ヶ峯きょうがみねは長年禁断きんだんの地だったのですか
D-3.経ヶ峯きょうがみね標高ひょうこう・杉の樹齢じゅれい本数・生息せいそくする動物を教えて下さい。
D-4.経ヶ峯きょうがみねには、伊達だて政宗まさむねの他に誰の墓所ぼしょが置かれているのですか
D-5.感仙殿かんせんでんについて教えて下さい。
D-6.善応殿ぜんのうでんについて教えて下さい。
D-7.妙雲界廟みょううんかいびょうにある墓所ぼしょは、なぜ霊屋おたまや御霊屋おたまや〕ではなく墓碑ぼひなのでしょうか
D-8.御子様御廟おこさまごびょうについて教えて下さい。
D-9.瑞鳳殿参道石段ずいほうでんさんどういしだん段数だんすうを教えて下さい。
D-10.瑞鳳殿ずいほうでん感仙殿かんせんでんにある殉死者墓碑じゅんししゃぼひについて教えて下さい。
D-11.瑞鳳殿ずいほうでん境内けいだいに、なぜ満海上人まんかいしょうにん供養塔くようとうがあるのでしょうか
D-12.瑞鳳殿ずいほうでん境内けいだいにある弔魂碑ちゅうこんひについて教えて下さい。
D-13.瑞鳳殿ずいほうでん境内けいだいにある『臥竜梅がりょうばい』について教えて下さい。
D-14.善応殿脇ぜんのうでんわきにある無縫塔むほうとうは誰の墓ですか
D-15.瑞鳳殿ずいほうでん瑞鳳寺ずいほうじの関係を教えて下さい。
D-16.瑞鳳寺ずいほうじにある鹿児島かごしま県人の墓について教えて下さい。
D-17.瑞鳳寺ずいほうじにある『高尾たかおもん』は『伊達騒動だてそうどう』と関係があるのでしょうか


D-1.経ヶ峯きょうがみねという名前の由来ゆらいを教えて下さい。
経ヶ峯きょうがみねは、古くは名取郡根岸村黒沼なとりぐんねぎしむらくろぬま萩ヶ崎はぎがさきと称されていた場所で、中世末期に修験者しゅげんしゃであった満海上人まんかいしょうにんD-12参照)がこの地の東峯に経文きょうもんおさめたと伝えられることから経ヶ峯と称されるようになったと言われています。
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D-2.経ヶ峯きょうがみねは長年禁断きんだんの地だったのですか
藩政はんせい時代以来、経ヶ峯きょうがみね伊達家だてけ墓所ぼしょが置かれる霊域れいいきとして、限られた者だけが入ることの許された場所でした。戦後〔昭和しょうわ〕この地は、伊達家から仙台市せんだいし宮城県みやぎけん〕に寄贈きそうされ、現在では仙台市指定史跡せんだいししていしせき『経ヶ峯伊達家墓所』〔7ヘクタール〕として、現状保存げんじょうほぞん義務付ぎむづけられ、財団法人瑞鳳殿ざいだんほうじんずいほうでんによって管理かんりされています。
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D-3.経ヶ峯きょうがみね標高ひょうこう・杉の樹齢じゅれい本数・生息せいそくする動物を教えて下さい。
経ヶ峯きょうがみね標高ひょうこうは73.6mあります。経ヶ峯の杉は瑞鳳殿造営時ずいほうでんぞうえいじ植林しょくりんされたもので、古いもので樹齢じゅれいは370年。最も巨大な杉は、樹高およそ44m、地際周囲しゅうい5.07mあります。樹齢350年以上の杉は47本(昭和55年調査に基づく本数)、他は樹齢200年以上以下の杉。経ヶ峯には、ムササビ〔リス科:夜行性やこうせい動物どうぶつで、木から木へと滑空かっくうする特異とくいな活動をする〕やニホンリスなどの哺乳類ほにゅうるい、キツツキの一種であるアオゲラをはじめとする40種類以上の鳥類ちょうるい生息せいそくしています。また、経ヶ峯西側広瀬川沿ひろせがわぞいいの断崖だんがいにはタカの一種であるチョウゲンボウが生息しています。
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D-4.経ヶ峯きょうがみねには、伊達だて政宗まさむねの他に誰の墓所ぼしょが置かれているのですか
経ヶ峯伊達家墓所きょうがみねだてけぼしょには、仙台せんだい藩祖はんそ伊達だて政宗まさむね霊屋瑞鳳殿おたまやずいほうでん御霊屋おたまや〕、2代藩主はんしゅ忠宗ただむねの霊屋〔御霊屋〕感仙殿かんせんでん、3代藩主綱宗つなむねの霊屋〔御霊屋〕善応殿ぜんのうでんをはじめ、9代藩主周宗ちかむね、11代藩主斉義なりよしとその夫人ふじん芝姫あつひめの墓が置かれる妙雲界廟みょううんかいびょうD-7参照)。また、5代藩主吉村よしむら以降の公子公女こうしこうじょの墓所である御子様御廟おこさまごびょうD-8参照)が置かれています。
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D-5.感仙殿かんせんでんについて教えて下さい。
感仙殿かんせんでんは、万冶まんじ元年(1658)7月12日、60歳で没した2代藩主はんしゅ伊達だて忠宗ただむね霊屋おたまや御霊屋おたまや〕で、寛文かんぶん4年(1664)4代藩主綱村つなむらの時代に創建そうけんされました。昭和しょうわ6年(1931)感仙殿は国宝こくほう指定していされましたが、昭和20年7月10日の戦災で焼失、現在の霊屋は昭和60年に再建さいけんされたものです。
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D-6.善応殿ぜんのうでんについて教えて下さい。
善応殿ぜんのうでんは、正徳しょうとく元年(1711)6月4日、72歳で没した3代藩主はんしゅ伊達だて綱宗つなむね霊屋おたまや御霊屋おたまや〕で、享保きょうほう元年(1716)6代藩主吉村よしむらの時代に創建そうけんされましたが、昭和20年(1945)7月10日の戦災で焼失、現在の霊屋は昭和60年に再建さいけんされたものです。
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D-7.妙雲界廟みょううんかいびょうにある墓所ぼしょは、なぜ霊屋おたまや御霊屋おたまや〕ではなく墓碑ぼひなのでしょうか
4代藩主はんしゅ伊達だて綱村つなむら以降歴代れきだい墓所ぼしょが置かれる大年寺山伊達家墓所だいねんじやまだてけぼしょ無尽灯廟むじんとうびょう宝華林廟ほうかりんびょう)〕は綱村のめいにより、廟建築をはいし一定規格きかく板石塔婆いたいしとうば墓碑ぼひ〕に雨屋あまやのみとなりました。さらに5代藩主吉村よしむら以降からは夫妻の墓は並列へいれつされ、総称も御霊屋おたまやから御廟ごびょうへと区別されました。経ヶ峯伊達家墓所妙雲界廟きょうがみねだてけぼしょみょううんかいびょうD-4参照)には、訳あって9代藩主周宗ちかむねと11代藩主斉義なりよし夫妻の墓が置かれていますが、墓の形態けいたいが墓碑となったのは、これにならったものです。なお、明治めいじ初年、伊達家は墓所の祭祀さいし祖先そせん祭礼さいれい〕を仏式ぶっしきから神式しんしきあらため13代藩主慶邦よしくに以降からの墓は土饅頭どまんじゅうと称する小円墳しょうえんふんへと代わりました。
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D-8.御子様御廟おこさまごびょうについて教えて下さい。
正徳しょうとく3年(1713)以後にもうけられた廟所びょうしょ墓所ぼしょ〕(D-4参照)で、5代藩主はんしゅ伊達だて吉村よしむら以降13代藩主慶邦よしくにまでの若くして死去した藩主の公子公女こうしこうじょ〔子供〕が埋葬まいそうされています。また、同墓域ぼいきには側室そくしつ老女ろうじょの墓も7基置かれています。
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D-9.瑞鳳殿参道石段ずいほうでんさんどういしだん段数だんすうを教えて下さい。
瑞鳳寺ずいほうじ前の坂道を登りつめ、さらに8だん石段いしだんを上がると3段にわたる石畳いしだたみおどいたります。左のゆるやかな62段の石段は藩祖はんそ伊達だて政宗まさむね霊屋おたまや御霊屋おたまや瑞鳳殿ずいほうでんたっし、右の42段の石段は2代藩主忠宗はんしゅただむねの霊屋感仙殿かんせんでん、3代藩主綱宗つなむねの霊屋善応殿ぜんのうでんD-5 D-6参照)に達します。石段及び平地の石畳は、不整形ふせいけい石板いしいた隙間すきまなくめたもので、いずれも見事な石工技巧せっこうぎこうです。また、瑞鳳殿、感仙殿、善応殿は、地山じやまを一部造成ぞうせいした平地に建築物を配置はいちしたものであることから、周辺には土砂崩壊どしゃほうかいふせぐために石垣いしがき築造ちくぞうされ、仙台藩せんだいはんにおける優秀な土木技術どぼくぎじゅつうかがうことができます。
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D-10.瑞鳳殿ずいほうでん感仙殿かんせんでんにある殉死者墓碑じゅんししゃぼひについて教えて下さい。
瑞鳳殿本殿ずいほうでんほんでん左右わきには、藩祖はんそ伊達だて政宗まさむね殉死じゅんしした石田いしだ将監しょうげん家臣かしん15名と陪臣ばいしん5名の墓と伝えられる宝篋印塔ほうきょういんとう供養塔くようとう〕が置かれています。また、感仙殿本殿かんせんでんほんでんの左右脇には、2代藩主忠宗はんしゅただむねに殉死した古内主膳ふるうちしゅぜんら家臣12名と陪臣4名の宝篋印塔が同様に置かれています。
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D-11.瑞鳳殿ずいほうでん境内けいだいに、なぜ満海上人まんかいしょうにん供養塔くようとうがあるのでしょうか
古文書こもんじょによれば、伊達だて政宗まさむね墓所ぼしょ工事の際、地中より石室せきしつが現れ、蓋石ふたいしを取り除くと、内部からは、錫杖しゃくじょう数珠じゅず等が発見され、墓所造営奉行ぞうえいぶぎょうであったおく奥山大学おくやまだいがくD-2参照)が土地の古老ころうたずねたところ、この場所は湯殿山ゆどのさん修験者満海上人しゅうげんしゃまんかいしょうにんD-1参照)が入定にゅうじょうした墓跡であったとの談話だんわが記されています。また、戦災で焼失する前の瑞鳳殿ずいほうでん本殿の東側には、『満海上人塔』が建てられていたことが古絵図こえずなどにも記されていますが、昭和しょうわ20年(1945)の戦災と、その後の荒廃こうはいにより『満海上人塔』と称する石碑せきひは失われました。現在の供養塔くようとうは、平成へいせい元年(1989)、御供所ごくしょ〔現在の瑞鳳殿資料館〕の向かい側に建てられていた暫屈ざんくつ藩主参詣時はんしゅさんけいじ休息所きゅうそくじょ〕跡に建立こんりゅうされたものです。
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D-12.瑞鳳殿ずいほうでん境内けいだいにある弔魂碑ちゅうこんひについて教えて下さい。
経ヶ峯伊達家墓域きょうがみねだてけぼいき南側奥に、弔魂碑ちょうこんひと記された鉄製の記念碑が建っています。明治維新めいじいしんの際に日本を二分する動乱どうらんがあり、こよみから戊辰戦争ぼしんせんそうと名付けられました。東北や北越諸藩しょはん防備ぼうびのためため奥羽越おううえつ列藩同盟れっばんどうめいむすび、西国さいごく諸藩に対抗しましたが、武器ぶき優劣ゆうれつや各藩の事情から同盟は3ヶ月で瓦解がかいしました。仙台藩せんだいはん盟主れいしゅとして東北や越後えちご新潟にいがた県〕などで戦い1260名を失い、同盟軍及び幕府軍ばくふぐん合わせて8000余名が亡くなりました。弔魂碑はその御霊みたまをととむらうため、明治10年10月、14代当主とうしゅ伊達だて宗基むねもとが、瑞鳳殿鐘楼ずいほうでんしょうろう鐘撞堂かねつきどう〕跡の石積基壇いしづみきだんの上に方尖塔ほうせんとう神殿しんでんなどの前に建てる記念碑〕を建てたものです。地上総高約4.5m、銘文めいぶん大槻文彦おおつきふみひことあります。
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D-13.瑞鳳殿ずいほうでん境内けいだいにある『臥竜梅がりょうばい』について教えて下さい。
地面に伏臥ふくが〔ふすこと〕する様態ようたいから〔姿〕から『臥龍梅がりょうばい』と呼ばれ、文禄ぶんろくえき朝鮮出兵ちょうせんしゅっぺい〕(F-11参照)で渡海した、伊達だて政宗まさむねが朝鮮から持ち帰り、仙台城せんだいじょうに植えさせた後、隠居所いんきょじょであった若林城わかばやしじょう仙台市古城せんだいしふるじろ)に移植いしょくしたといわれています。瑞鳳殿ずいほうでんにある『臥龍梅』は、古城の『臥龍梅』〔国指定天然記念物くにしていてんねんきねんぶつ〕から取木とりきされたもので、瑞鳳殿の再建さいけんを記念して植樹しょくじゅされたものです。
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D-14.善応殿脇ぜんのうでんわきにある無縫塔むほうとうは誰の墓ですか
これは擬殉者ぎじゅんしゃの墓で、無縫塔むほうとうと呼ばれています。3代藩主はんしゅ伊達だて綱宗つなむねの没した正徳しょうとく元年(1711)は殉死禁止令じゅんしきんしれいから48年を経過していましたが、14名の家臣かしんが藩主のゆるしを得て剃髪ていはつし、百ヶ日間亡君ひゃくかにちかんぼうくん菩提ぼだいとむらいました。これは殉死(D-10参照)に代わる習俗しゅうぞくで、擬殉と称しますが、この時、近習頭きんじゅうがしらであった熊谷齋直清くまがいいっきなおきよのみは出家しゅっけ渓叟けいそうごうしました。直清は享保きょうほう18年(1733)71歳で没し、遺骸いがい善応殿ぜんのうでんD-6参照)前方南側に埋葬まいそうされました。
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D-15.瑞鳳殿ずいほうでん瑞鳳寺ずいほうじ
寛永かんえい14年(1637)、瑞鳳殿ずいほうでん造営ぞうえいB-1参照)にともな参道山腹さんどうさんぷくに2代藩主はんしゅ伊達だて忠宗ただむね香華院こうげいん仏前ぶつぜんに花と香を供える寺院〕として瑞鳳寺ずいほうじ創建そうけんしました。続いて経ヶ峯きょうがみねには、感仙殿かんせんでん善応殿ぜんのうでんD-5 D-6参照)が造営されたことで、藩政はんせい時代は一門格いちもんかくの寺院として、山内に多くの傍院ぼういん塔頭たっちゅうを〔 別坊べつぼう子院しいん〕持ちましたが、明治めいじ初期の廃仏毀釈はいぶつきしゃくに伴いことごと廃寺はいじとなりました。現在の瑞鳳寺は、大正たいしょう15年に復興ふっこうされたものですが、再建された瑞鳳殿、感仙殿、善応殿を管理する財団法人瑞鳳殿ざいだんほうじんずいほうでんと瑞鳳寺とはべつ組織そしきとなります。
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D-16.瑞鳳寺ずいほうじにある鹿児島かごしま県人の墓について教えて下さい。s
明治めいじ10年(1877)西南せいなん戦争に従軍じゅうぐんし、戦後官軍かんぐん投降とうこうした西郷さいごう軍は、国事犯こくじはんとして全国の監獄署かんごくしょ護送ごそうされました。宮城県監獄署みやぎけんかんごくしょには350人が収容しゅうようされましたが、彼等は宮城県内の開墾かいこん作業や築港ちっこう工事に従事じゅうじし、明治初期宮城県の開発に貢献こうけんしました。このうちの13人が獄中で亡くなり、瑞鳳寺ずいほうじほうむられました。
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D-17.瑞鳳寺ずいほうじにある『高尾たかおもん』は『伊達だて騒動そうどう』と関係があるのでしょうか
この門は、伊達だて騒動そうどう寛文事件かんぶんじけん〕の渦中かちゅうにあった3代藩主はんしゅ伊達だて綱宗つなむね側室椙原品そくしつすぎはらしな屋敷やしきにあったものを瑞鳳寺境内ずいほうじけいだい移設いせつしたもので、欄間らんまには綱宗の作と伝えられる『雪薄ゆきすすき』(F-1参照)が付けられています。なお、『高尾たかおもん』とは、伊達騒動を題材だいざいとした歌舞伎かぶき伽羅先代萩めいぼくせんだいはぎ』の登場人物になぞらえての俗称ぞくしょうであり、史実しじつとは関係ありません。
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