経ヶ峯墓域
(
きょうがみねぼいき
)
と
周辺
(
しゅうへん
)
の
史跡
(
しせき
)
等について
D-1.
経ヶ峯
(
きょうがみね
)
という名前の
由来
(
ゆらい
)
を教えて下さい。
D-2.
経ヶ峯
(
きょうがみね
)
は長年
禁断
(
きんだん
)
の地だったのですか
D-3.
経ヶ峯
(
きょうがみね
)
の
標高
(
ひょうこう
)
・杉の
樹齢
(
じゅれい
)
本数・
生息
(
せいそく
)
する動物を教えて下さい。
D-4.
経ヶ峯
(
きょうがみね
)
には、
伊達
(
だて
)
政宗
(
まさむね
)
の他に誰の
墓所
(
ぼしょ
)
が置かれているのですか
D-5.
感仙殿
(
かんせんでん
)
について教えて下さい。
D-6.
善応殿
(
ぜんのうでん
)
について教えて下さい。
D-7.
妙雲界廟
(
みょううんかいびょう
)
にある
墓所
(
ぼしょ
)
は、なぜ
霊屋
(
おたまや
)
〔
御霊屋
(
おたまや
)
〕ではなく
墓碑
(
ぼひ
)
なのでしょうか
D-8.
御子様御廟
(
おこさまごびょう
)
について教えて下さい。
D-9.
瑞鳳殿参道石段
(
ずいほうでんさんどういしだん
)
の
段数
(
だんすう
)
を教えて下さい。
D-10.
瑞鳳殿
(
ずいほうでん
)
と
感仙殿
(
かんせんでん
)
にある
殉死者墓碑
(
じゅんししゃぼひ
)
について教えて下さい。
D-11.
瑞鳳殿
(
ずいほうでん
)
の
境内
(
けいだい
)
に、なぜ
満海上人
(
まんかいしょうにん
)
の
供養塔
(
くようとう
)
があるのでしょうか
D-12.
瑞鳳殿
(
ずいほうでん
)
の
境内
(
けいだい
)
にある
弔魂碑
(
ちゅうこんひ
)
について教えて下さい。
D-13.
瑞鳳殿
(
ずいほうでん
)
の
境内
(
けいだい
)
にある『
臥竜梅
(
がりょうばい
)
』について教えて下さい。
D-14.
善応殿脇
(
ぜんのうでんわき
)
にある
無縫塔
(
むほうとう
)
は誰の墓ですか
D-15.
瑞鳳殿
(
ずいほうでん
)
と
瑞鳳寺
(
ずいほうじ
)
の関係を教えて下さい。
D-16.
瑞鳳寺
(
ずいほうじ
)
にある
鹿児島
(
かごしま
)
県人の墓について教えて下さい。
D-17.
瑞鳳寺
(
ずいほうじ
)
にある『
高尾
(
たかお
)
の
門
(
もん
)
』は『
伊達騒動
(
だてそうどう
)
』と関係があるのでしょうか
D-1.
経ヶ峯
(
きょうがみね
)
という名前の
由来
(
ゆらい
)
を教えて下さい。
経ヶ峯
(
きょうがみね
)
は、古くは
名取郡根岸村黒沼
(
なとりぐんねぎしむらくろぬま
)
の
萩ヶ崎
(
はぎがさき
)
と称されていた場所で、中世末期に
修験者
(
しゅげんしゃ
)
であった
満海上人
(
まんかいしょうにん
)
(
D-12
参照)がこの地の東峯に
経文
(
きょうもん
)
を
納
(
おさ
)
めたと伝えられることから経ヶ峯と称されるようになったと言われています。
▲TOP
D-2.
経ヶ峯
(
きょうがみね
)
は長年
禁断
(
きんだん
)
の地だったのですか
藩政
(
はんせい
)
時代以来、
経ヶ峯
(
きょうがみね
)
は
伊達家
(
だてけ
)
の
墓所
(
ぼしょ
)
が置かれる
霊域
(
れいいき
)
として、限られた者だけが入ることの許された場所でした。戦後〔
昭和
(
しょうわ
)
〕この地は、伊達家から
仙台市
(
せんだいし
)
〔
宮城県
(
みやぎけん
)
〕に
寄贈
(
きそう
)
され、現在では
仙台市指定史跡
(
せんだいししていしせき
)
『経ヶ峯伊達家墓所』〔7ヘクタール〕として、
現状保存
(
げんじょうほぞん
)
が
義務付
(
ぎむづ
)
けられ、
財団法人瑞鳳殿
(
ざいだんほうじんずいほうでん
)
によって
管理
(
かんり
)
されています。
▲TOP
D-3.
経ヶ峯
(
きょうがみね
)
の
標高
(
ひょうこう
)
・杉の
樹齢
(
じゅれい
)
本数・
生息
(
せいそく
)
する動物を教えて下さい。
経ヶ峯
(
きょうがみね
)
の
標高
(
ひょうこう
)
は73.6mあります。経ヶ峯の杉は
瑞鳳殿造営時
(
ずいほうでんぞうえいじ
)
に
植林
(
しょくりん
)
されたもので、古いもので
樹齢
(
じゅれい
)
は370年。最も巨大な杉は、樹高
凡
(
およ
)
そ44m、地際
周囲
(
しゅうい
)
5.07mあります。樹齢350年以上の杉は47本(昭和55年調査に基づく本数)、他は樹齢200年以上以下の杉。経ヶ峯には、ムササビ〔リス科:
夜行性
(
やこうせい
)
の
動物
(
どうぶつ
)
で、木から木へと
滑空
(
かっくう
)
する
特異
(
とくい
)
な活動をする〕やニホンリスなどの
哺乳類
(
ほにゅうるい
)
、キツツキの一種であるアオゲラをはじめとする40種類以上の
鳥類
(
ちょうるい
)
が
生息
(
せいそく
)
しています。また、経ヶ峯西側
広瀬川沿
(
ひろせがわぞい
)
いの
断崖
(
だんがい
)
にはタカの一種であるチョウゲンボウが生息しています。
▲TOP
D-4.
経ヶ峯
(
きょうがみね
)
には、
伊達
(
だて
)
政宗
(
まさむね
)
の他に誰の
墓所
(
ぼしょ
)
が置かれているのですか
経ヶ峯伊達家墓所
(
きょうがみねだてけぼしょ
)
には、
仙台
(
せんだい
)
藩祖
(
はんそ
)
伊達
(
だて
)
政宗
(
まさむね
)
の
霊屋瑞鳳殿
(
おたまやずいほうでん
)
〔
御霊屋
(
おたまや
)
〕、2代
藩主
(
はんしゅ
)
忠宗
(
ただむね
)
の霊屋〔御霊屋〕
感仙殿
(
かんせんでん
)
、3代藩主
綱宗
(
つなむね
)
の霊屋〔御霊屋〕
善応殿
(
ぜんのうでん
)
をはじめ、9代藩主
周宗
(
ちかむね
)
、11代藩主
斉義
(
なりよし
)
とその
夫人
(
ふじん
)
芝姫
(
あつひめ
)
の墓が置かれる
妙雲界廟
(
みょううんかいびょう
)
(
D-7
参照)。また、5代藩主
吉村
(
よしむら
)
以降の
公子公女
(
こうしこうじょ
)
の墓所である
御子様御廟
(
おこさまごびょう
)
(
D-8
参照)が置かれています。
▲TOP
D-5.
感仙殿
(
かんせんでん
)
について教えて下さい。
感仙殿
(
かんせんでん
)
は、
万冶
(
まんじ
)
元年(1658)7月12日、60歳で没した2代
藩主
(
はんしゅ
)
伊達
(
だて
)
忠宗
(
ただむね
)
の
霊屋
(
おたまや
)
〔
御霊屋
(
おたまや
)
〕で、
寛文
(
かんぶん
)
4年(1664)4代藩主
綱村
(
つなむら
)
の時代に
創建
(
そうけん
)
されました。
昭和
(
しょうわ
)
6年(1931)感仙殿は
国宝
(
こくほう
)
に
指定
(
してい
)
されましたが、昭和20年7月10日の戦災で焼失、現在の霊屋は昭和60年に
再建
(
さいけん
)
されたものです。
▲TOP
D-6.
善応殿
(
ぜんのうでん
)
について教えて下さい。
善応殿
(
ぜんのうでん
)
は、
正徳
(
しょうとく
)
元年(1711)6月4日、72歳で没した3代
藩主
(
はんしゅ
)
伊達
(
だて
)
綱宗
(
つなむね
)
の
霊屋
(
おたまや
)
〔
御霊屋
(
おたまや
)
〕で、
享保
(
きょうほう
)
元年(1716)6代藩主
吉村
(
よしむら
)
の時代に
創建
(
そうけん
)
されましたが、昭和20年(1945)7月10日の戦災で焼失、現在の霊屋は昭和60年に
再建
(
さいけん
)
されたものです。
▲TOP
D-7.
妙雲界廟
(
みょううんかいびょう
)
にある
墓所
(
ぼしょ
)
は、なぜ
霊屋
(
おたまや
)
〔
御霊屋
(
おたまや
)
〕ではなく
墓碑
(
ぼひ
)
なのでしょうか
4代
藩主
(
はんしゅ
)
伊達
(
だて
)
綱村
(
つなむら
)
以降
歴代
(
れきだい
)
の
墓所
(
ぼしょ
)
が置かれる
大年寺山伊達家墓所
(
だいねんじやまだてけぼしょ
)
〔
無尽灯廟
(
むじんとうびょう
)
、
宝華林廟
(
ほうかりんびょう
)
)〕は綱村の
命
(
めい
)
により、廟建築を
廃
(
はい
)
し一定
規格
(
きかく
)
の
板石塔婆
(
いたいしとうば
)
〔
墓碑
(
ぼひ
)
〕に
雨屋
(
あまや
)
のみとなりました。さらに5代藩主
吉村
(
よしむら
)
以降からは夫妻の墓は
並列
(
へいれつ
)
され、総称も
御霊屋
(
おたまや
)
から
御廟
(
ごびょう
)
へと区別されました。
経ヶ峯伊達家墓所妙雲界廟
(
きょうがみねだてけぼしょみょううんかいびょう
)
(
D-4
参照)には、訳あって9代藩主
周宗
(
ちかむね
)
と11代藩主
斉義
(
なりよし
)
夫妻の墓が置かれていますが、墓の
形態
(
けいたい
)
が墓碑となったのは、これに
倣
(
なら
)
ったものです。なお、
明治
(
めいじ
)
初年、伊達家は墓所の
祭祀
(
さいし
)
〔
祖先
(
そせん
)
の
祭礼
(
さいれい
)
〕を
仏式
(
ぶっしき
)
から
神式
(
しんしき
)
へ
改
(
あらた
)
め13代藩主
慶邦
(
よしくに
)
以降からの墓は
土饅頭
(
どまんじゅう
)
と称する
小円墳
(
しょうえんふん
)
へと代わりました。
▲TOP
D-8.
御子様御廟
(
おこさまごびょう
)
について教えて下さい。
正徳
(
しょうとく
)
3年(1713)以後に
設
(
もう
)
けられた
廟所
(
びょうしょ
)
〔
墓所
(
ぼしょ
)
〕(
D-4
参照)で、5代
藩主
(
はんしゅ
)
伊達
(
だて
)
吉村
(
よしむら
)
以降13代藩主
慶邦
(
よしくに
)
までの若くして死去した藩主の
公子公女
(
こうしこうじょ
)
〔子供〕が
埋葬
(
まいそう
)
されています。また、同
墓域
(
ぼいき
)
には
側室
(
そくしつ
)
や
老女
(
ろうじょ
)
の墓も7基置かれています。
▲TOP
D-9.
瑞鳳殿参道石段
(
ずいほうでんさんどういしだん
)
の
段数
(
だんすう
)
を教えて下さい。
瑞鳳寺
(
ずいほうじ
)
前の坂道を登りつめ、さらに8
段
(
だん
)
の
石段
(
いしだん
)
を上がると3段にわたる
石畳
(
いしだたみ
)
の
踊
(
おど
)
り
場
(
ば
)
に
至
(
いた
)
ります。左の
緩
(
ゆる
)
やかな62段の石段は
藩祖
(
はんそ
)
伊達
(
だて
)
政宗
(
まさむね
)
の
霊屋
(
おたまや
)
〔
御霊屋
(
おたまや
)
〕
瑞鳳殿
(
ずいほうでん
)
に
達
(
たっ
)
し、右の42段の石段は2代
藩主忠宗
(
はんしゅただむね
)
の霊屋
感仙殿
(
かんせんでん
)
、3代藩主
綱宗
(
つなむね
)
の霊屋
善応殿
(
ぜんのうでん
)
(
D-5
D-6
参照)に達します。石段及び平地の石畳は、
不整形
(
ふせいけい
)
の
石板
(
いしいた
)
を
隙間
(
すきま
)
なく
敷
(
し
)
き
詰
(
つ
)
めたもので、いずれも見事な
石工技巧
(
せっこうぎこう
)
です。また、瑞鳳殿、感仙殿、善応殿は、
地山
(
じやま
)
を一部
造成
(
ぞうせい
)
した平地に建築物を
配置
(
はいち
)
したものであることから、周辺には
土砂崩壊
(
どしゃほうかい
)
を
防
(
ふせ
)
ぐために
石垣
(
いしがき
)
が
築造
(
ちくぞう
)
され、
仙台藩
(
せんだいはん
)
における優秀な
土木技術
(
どぼくぎじゅつ
)
を
窺
(
うかが
)
うことができます。
▲TOP
D-10.
瑞鳳殿
(
ずいほうでん
)
と
感仙殿
(
かんせんでん
)
にある
殉死者墓碑
(
じゅんししゃぼひ
)
について教えて下さい。
瑞鳳殿本殿
(
ずいほうでんほんでん
)
左右
脇
(
わき
)
には、
藩祖
(
はんそ
)
伊達
(
だて
)
政宗
(
まさむね
)
に
殉死
(
じゅんし
)
した
石田
(
いしだ
)
将監
(
しょうげん
)
ら
家臣
(
かしん
)
15名と
陪臣
(
ばいしん
)
5名の墓と伝えられる
宝篋印塔
(
ほうきょういんとう
)
〔
供養塔
(
くようとう
)
〕が置かれています。また、
感仙殿本殿
(
かんせんでんほんでん
)
の左右脇には、2代
藩主忠宗
(
はんしゅただむね
)
に殉死した
古内主膳
(
ふるうちしゅぜん
)
ら家臣12名と陪臣4名の宝篋印塔が同様に置かれています。
▲TOP
D-11.
瑞鳳殿
(
ずいほうでん
)
の
境内
(
けいだい
)
に、なぜ
満海上人
(
まんかいしょうにん
)
の
供養塔
(
くようとう
)
があるのでしょうか
古文書
(
こもんじょ
)
によれば、
伊達
(
だて
)
政宗
(
まさむね
)
の
墓所
(
ぼしょ
)
工事の際、地中より
石室
(
せきしつ
)
が現れ、
蓋石
(
ふたいし
)
を取り除くと、内部からは、
錫杖
(
しゃくじょう
)
、
数珠
(
じゅず
)
等が発見され、墓所
造営奉行
(
ぞうえいぶぎょう
)
であったおく
奥山大学
(
おくやまだいがく
)
(
D-2
参照)が土地の
古老
(
ころう
)
に
尋
(
たず
)
ねたところ、この場所は
湯殿山
(
ゆどのさん
)
の
修験者満海上人
(
しゅうげんしゃまんかいしょうにん
)
(
D-1
参照)が
入定
(
にゅうじょう
)
した墓跡であったとの
談話
(
だんわ
)
が記されています。また、戦災で焼失する前の
瑞鳳殿
(
ずいほうでん
)
本殿の東側には、『満海上人塔』が建てられていたことが
古絵図
(
こえず
)
などにも記されていますが、
昭和
(
しょうわ
)
20年(1945)の戦災と、その後の
荒廃
(
こうはい
)
により『満海上人塔』と称する
石碑
(
せきひ
)
は失われました。
現在の
供養塔
(
くようとう
)
は、
平成
(
へいせい
)
元年(1989)、
御供所
(
ごくしょ
)
〔現在の瑞鳳殿資料館〕の向かい側に建てられていた
暫屈
(
ざんくつ
)
〔
藩主参詣時
(
はんしゅさんけいじ
)
の
休息所
(
きゅうそくじょ
)
〕跡に
建立
(
こんりゅう
)
されたものです。
▲TOP
D-12.
瑞鳳殿
(
ずいほうでん
)
の
境内
(
けいだい
)
にある
弔魂碑
(
ちゅうこんひ
)
について教えて下さい。
経ヶ峯伊達家墓域
(
きょうがみねだてけぼいき
)
南側奥に、
弔魂碑
(
ちょうこんひ
)
と記された鉄製の記念碑が建っています。
明治維新
(
めいじいしん
)
の際に日本を二分する
動乱
(
どうらん
)
があり、
暦
(
こよみ
)
から
戊辰戦争
(
ぼしんせんそう
)
と名付けられました。東北や北越
諸藩
(
しょはん
)
は
防備
(
ぼうび
)
のため
為
(
ため
)
に
奥羽越
(
おううえつ
)
列藩同盟
(
れっばんどうめい
)
を
結
(
むす
)
び、
西国
(
さいごく
)
諸藩に対抗しましたが、
武器
(
ぶき
)
の
優劣
(
ゆうれつ
)
や各藩の事情から同盟は3ヶ月で
瓦解
(
がかい
)
しました。
仙台藩
(
せんだいはん
)
は
盟主
(
れいしゅ
)
として東北や
越後
(
えちご
)
〔
新潟
(
にいがた
)
県〕などで戦い1260名を失い、同盟軍及び
幕府軍
(
ばくふぐん
)
合わせて8000余名が亡くなりました。弔魂碑はその
御霊
(
みたま
)
をと
弔
(
とむら
)
うため、明治10年10月、14代
当主
(
とうしゅ
)
伊達
(
だて
)
宗基
(
むねもと
)
が、
瑞鳳殿鐘楼
(
ずいほうでんしょうろう
)
〔
鐘撞堂
(
かねつきどう
)
〕跡の
石積基壇
(
いしづみきだん
)
の上に
方尖塔
(
ほうせんとう
)
〔
神殿
(
しんでん
)
などの前に建てる記念碑〕を建てたものです。地上総高約4.5m、
銘文
(
めいぶん
)
は
大槻文彦
(
おおつきふみひこ
)
とあります。
▲TOP
D-13.
瑞鳳殿
(
ずいほうでん
)
の
境内
(
けいだい
)
にある『
臥竜梅
(
がりょうばい
)
』について教えて下さい。
地面に
伏臥
(
ふくが
)
〔ふすこと〕する
様態
(
ようたい
)
から〔姿〕から『
臥龍梅
(
がりょうばい
)
』と呼ばれ、
文禄
(
ぶんろく
)
の
役
(
えき
)
〔
朝鮮出兵
(
ちょうせんしゅっぺい
)
〕(
F-11
参照)で渡海した、
伊達
(
だて
)
政宗
(
まさむね
)
が朝鮮から持ち帰り、
仙台城
(
せんだいじょう
)
に植えさせた後、
隠居所
(
いんきょじょ
)
であった
若林城
(
わかばやしじょう
)
(
仙台市古城
(
せんだいしふるじろ
)
)に
移植
(
いしょく
)
したといわれています。
瑞鳳殿
(
ずいほうでん
)
にある『臥龍梅』は、古城の『臥龍梅』〔
国指定天然記念物
(
くにしていてんねんきねんぶつ
)
〕から
取木
(
とりき
)
されたもので、瑞鳳殿の
再建
(
さいけん
)
を記念して
植樹
(
しょくじゅ
)
されたものです。
▲TOP
D-14.
善応殿脇
(
ぜんのうでんわき
)
にある
無縫塔
(
むほうとう
)
は誰の墓ですか
これは
擬殉者
(
ぎじゅんしゃ
)
の墓で、
無縫塔
(
むほうとう
)
と呼ばれています。3代
藩主
(
はんしゅ
)
伊達
(
だて
)
綱宗
(
つなむね
)
の没した
正徳
(
しょうとく
)
元年(1711)は
殉死禁止令
(
じゅんしきんしれい
)
から48年を経過していましたが、14名の
家臣
(
かしん
)
が藩主の
許
(
ゆる
)
しを得て
剃髪
(
ていはつ
)
し、
百ヶ日間亡君
(
ひゃくかにちかんぼうくん
)
の
菩提
(
ぼだい
)
を
弔
(
とむら
)
いました。これは殉死(
D-10
参照)に代わる
習俗
(
しゅうぞく
)
で、擬殉と称しますが、この時、
近習頭
(
きんじゅうがしら
)
であった
熊谷齋直清
(
くまがいいっきなおきよ
)
のみは
出家
(
しゅっけ
)
し
渓叟
(
けいそう
)
と
号
(
ごう
)
しました。直清は
享保
(
きょうほう
)
18年(1733)71歳で没し、
遺骸
(
いがい
)
は
善応殿
(
ぜんのうでん
)
(
D-6
参照)前方南側に
埋葬
(
まいそう
)
されました。
▲TOP
D-15.
瑞鳳殿
(
ずいほうでん
)
と
瑞鳳寺
(
ずいほうじ
)
寛永
(
かんえい
)
14年(1637)、
瑞鳳殿
(
ずいほうでん
)
の
造営
(
ぞうえい
)
(
B-1
参照)に
伴
(
ともな
)
い
参道山腹
(
さんどうさんぷく
)
に2代
藩主
(
はんしゅ
)
伊達
(
だて
)
忠宗
(
ただむね
)
が
香華院
(
こうげいん
)
〔
仏前
(
ぶつぜん
)
に花と香を供える寺院〕として
瑞鳳寺
(
ずいほうじ
)
を
創建
(
そうけん
)
しました。続いて
経ヶ峯
(
きょうがみね
)
には、
感仙殿
(
かんせんでん
)
、
善応殿
(
ぜんのうでん
)
(
D-5
D-6
参照)が造営されたことで、
藩政
(
はんせい
)
時代は
一門格
(
いちもんかく
)
の寺院として、山内に多くの
傍院
(
ぼういん
)
、
塔頭
(
たっちゅう
)
を〔
別坊
(
べつぼう
)
、
子院
(
しいん
)
〕持ちましたが、
明治
(
めいじ
)
初期の
廃仏毀釈
(
はいぶつきしゃく
)
に伴い
悉
(
ことごと
)
く
廃寺
(
はいじ
)
となりました。現在の瑞鳳寺は、
大正
(
たいしょう
)
15年に
復興
(
ふっこう
)
されたものですが、再建された瑞鳳殿、感仙殿、善応殿を管理する
財団法人瑞鳳殿
(
ざいだんほうじんずいほうでん
)
と瑞鳳寺とは
別
(
べつ
)
の
組織
(
そしき
)
となります。
▲TOP
D-16.
瑞鳳寺
(
ずいほうじ
)
にある
鹿児島
(
かごしま
)
県人の墓について教えて下さい。s
明治
(
めいじ
)
10年(1877)
西南
(
せいなん
)
戦争に
従軍
(
じゅうぐん
)
し、戦後
官軍
(
かんぐん
)
に
投降
(
とうこう
)
した
西郷
(
さいごう
)
軍は、
国事犯
(
こくじはん
)
として全国の
監獄署
(
かんごくしょ
)
に
護送
(
ごそう
)
されました。
宮城県監獄署
(
みやぎけんかんごくしょ
)
には350人が
収容
(
しゅうよう
)
されましたが、彼等は宮城県内の
開墾
(
かいこん
)
作業や
築港
(
ちっこう
)
工事に
従事
(
じゅうじ
)
し、明治初期宮城県の開発に
貢献
(
こうけん
)
しました。このうちの13人が獄中で亡くなり、
瑞鳳寺
(
ずいほうじ
)
に
葬
(
ほうむ
)
られました。
▲TOP
D-17.
瑞鳳寺
(
ずいほうじ
)
にある『
高尾
(
たかお
)
の
門
(
もん
)
』は『
伊達
(
だて
)
騒動
(
そうどう
)
』と関係があるのでしょうか
この門は、
伊達
(
だて
)
騒動
(
そうどう
)
〔
寛文事件
(
かんぶんじけん
)
〕の
渦中
(
かちゅう
)
にあった3代
藩主
(
はんしゅ
)
伊達
(
だて
)
綱宗
(
つなむね
)
の
側室椙原品
(
そくしつすぎはらしな
)
の
屋敷
(
やしき
)
にあったものを
瑞鳳寺境内
(
ずいほうじけいだい
)
に
移設
(
いせつ
)
したもので、
欄間
(
らんま
)
には綱宗の作と伝えられる『
雪薄
(
ゆきすすき
)
』(
F-1
参照)が付けられています。なお、『
高尾
(
たかお
)
の
門
(
もん
)
』とは、伊達騒動を
題材
(
だいざい
)
とした
歌舞伎
(
かぶき
)
『
伽羅先代萩
(
めいぼくせんだいはぎ
)
』の登場人物になぞらえての
俗称
(
ぞくしょう
)
であり、
史実
(
しじつ
)
とは関係ありません。
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